2014/04/02

■コラム■プロジェクト研究、論文発表、そしてパワー・ディスタンス

研究機関が置かれた国や地域のパワー文化的な特徴が研究機関の活動のありようやイノベーション創出にとって大きな影響を及ぼしているのはないかということを今、足元で起こっている理化学研究所主導のプロジェクトメンバーが科学雑誌、Natureに投稿した論文が引き起こした問題をめぐるさまざまなやりとりを拝見していて感じる。

研究機関で戦略的なプロジェクが編成され、プロジェクトチームに基づく活動が進められる。複数の専門家が連携を取りながら、個別領域の実験やさまざまな作業をパラレルに進め、プロジェクトの進捗状況を踏まえ、これまでの実験や作業へのフィードバックを確認しあいながら、少しずつプロジェクトを前に進る。ある一定の段階で、仮説を検証し、確認できたこと、そしてまだ不明瞭な領域の特定化などを図る。論文の執筆に当たっては、プロジェクト構成員がそれぞれの分担を決め、リーダーのもとで、プロジェクトの結果と成果に基づき画像や記号などを含め言語記述を行う。

ここで、イノベーションとパワー(権力・権威)ということについて考えてみたい。専門的な研究活動に従事する者が、業務推進時に、パワーという存在が無意識的にせよどのような形で脳裏にあるのかを考えることは意味のあることかも知れない。あるいは、パワーとイノベーションとはあまり相関関係がないことなのだろうか?

パワー・ディスタンス(対人権力距離)
日本のようにパワー・ディスタンスが相対的に高い文化環境の国におけるプロジェクト研究にパワーがどの程度影響を及ぼすのであろうか?また、研究機関が置かれた文化的環境がどのようなものであるかによって新しい価値の創出に必要な研究機関内外におけるコミュニケーションの度合いに違いが出るという考え方は成り立つのか?そして、このような観点から問題の分析を行ったり、課題解決への取り組み方を検討したりすることは意味があるのかないのか?

足元で、日本の理化学研究所のプロジェクトチームが発表したいわゆるSTAP細胞論文をめぐり、主として日本社会でのやりとりが世界を巻き込むような形で取りざたされていることはご承知の通りである。

朝日新聞デジタル版記事を二点掲げておく。
「文科相「調査は不十分」 論文不正、理研に再提出求める」(2014年4月1日付) 
「STAP細胞、存在は謎のまま 不正『小保方氏ひとり』」(2014年4月1日付)
 
典型的と言っては文部科学省のかたや理化学研究所のかたがたに失礼かもしれないが、状況の認識や表現の仕方に日本的なパワー・ディスタンス文化の存在を感じざるを得ない。

理研でどのようなことが問題なのか?
今回のケースを文部科学省からみると、問題を起こした理化学研究所の研究機関としてのあり方に問題があるようにみえてしまうようだが、これまでの文部科学省行政に問題を引き起こさせるような基礎低音は流れていなかったのか?

理化学研究所の幹部からみると、研究業務に当たったプロジェクトチームの仕事の仕方に問題があるようにみえるのかもしれないが、実際には、前掲新聞記事などが報道しているように、理化学研究所幹部の言い方を聞いていると、責任はすべてとは言わないがほとんどこのプロジェクトを率いた小保方氏個人の不正や倫理観に問題があると言わんかのごとき物言いであるが、組織の幹部ははたしてどこまでこうした発言ができる存在であるのか?

このような日本の状況は、ヒエラルキー的に最も階層の低い者にすべての責任を押しつけるという構図そのものを如実に表すものだとしたら、フェアではない。もちろん、プロジェクトチームによる論文作成の手順や標準ルール、そして倫理観の存在などが所与の前提であることもまた論を俟たない。でも、誰かだけが悪くて、その誰か以外の者が、とりわけ組織の長や理事などの職にある者、そして幹部職員などが検察官的な物言いをする組織は病んでいると思う。

高いパワー・ディスタンス文化環境にある日本の社会、こうした社会で研究機関がどのようにして世代交代をしながら一定程度の質の研究を続けて行くのか?今回の問題は多分氷山の一角であるかも知れず、「対岸の火事」をみるような態度だけはマスコミも含め厳に慎む必要があると思う。


140402 浦上アジア経営研修所/代表 浦上 清


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